2016年10月30日

ベトベトマニア2 参戦記録 本戦回顧録

あの日あのとき……。
あなたは何をしていましたか?



ベトベトマニア2 参戦記録 本戦回顧録


……ようやく更新。いよいよ本編に入ります。本編開始前の朝準備を少しだけ記述してから、回顧録風のレポートを書き上げたい思います。

ではごゆるりと。


(上の集合写真は頂き物です。アキニャンさん、ありがとうございます)














朝方の3時、呑み過ぎの嘔吐で起床した後、気付けば7時を回っていました。

朝6時のラジオ放送は聴きそびれてしまったわけですね。その後もかなりの時間を二日酔いの症状で過ごします。

飲みすぎはダメですねぇ。

今回は輸送力が大幅に強化されたので、ちんまりした調理器具も持ってくることができました。

前回はコンビニのパンだけでしたからね……。やっぱり暖かい飯は良いものです。

コーヒーを飲んで二日酔いを覚ましつつ、朝の準備を黙々と進めたのでした。



前回も触れましたが、ベトマニ2の参加者は少なめの80人前後。これは赤字ギリギリの人数だそうです。

それでも80人。かなりの人数であることに違いはありません。

前からコメントを頂いていたカンベエさんにご挨拶しようと、前夜祭の雑踏をかき分けて探したのですが、結局お会いできたのは翌日でした。あまりお話できず、申し訳ない限りです。



朝の全体ミーティングが始まり、お馴染みのルール説明が始まります。

最後に戦没者への黙祷。この瞬間、響き渡るラッパの音色が、ベトマニ参加の一番の理由かもしれません。


ベトベトマニア2 参戦記録 本戦回顧録



北側の作戦会議ではヴィン隊長の元、北ベトナム人民軍と南ベトナム解放民族戦線の達成目標が掲げられ、一致団結してこれを目指そうということになりました。

ずばり、

「今日一日でサイゴンを解放するのは無理です(敗北主義者)」

何しろ南側の兵士5人に対し、こちらは3人いる計算なのです。
敵の防衛線は薄いし、米軍は鈍重だし、おまけに攻撃の主導権は我々が握っていますから(強気)、アッというまに決着がついてしまうと困ってしまいます。こうなるも道理。



ともかくホーチミンの意思を仰ぎつつ、行動が開始されるのでした。米軍を倒さないように気をつけて。



ところで、今回投入予定だったモスカート利用のブービートラップですが……。
試験で使用したモスカートと同じタイプの物を使えば良かったのに、径が若干大きめのモスカートを持ってきてしまいました。
G&Pの18連タイプですね。

これが、内径40mmの塩ビパイプに全く入らない。全くとんだ盲点でした。モスカートを固定できないのですから、当然仕掛けも作動しません。

事前に試さないとこうなるよ、という痛い経験になりました。むむ……。

アキニャンさんが投入されたクラッカー式のブービートラップは快調で、何人も引っかかったようです。例によって味方も。



ではここから本編へ。

※この回顧録は公式のものではありません。全て私の妄想であり、実際の展開とは異なる点があります。
ただし、時代背景や軍事状況などはなるべく史実に近づくよう、稚拙ながら努力いたしました。








 ……1966年、9月。ちょうどあの頃、チバ省での戦いが再燃した。
 同年の4月以来、南ベトナム政府軍との小規模な衝突は何度かあった。米軍は何度もやってきて、政府軍を引っ張りながら掃討作戦を展開した。街道沿いにパトロールして、ついでに村落を焼き払っていく、といった具合だ。つまり、実質的に米軍は何もしていなかった。決して密林の中に入ってこようとしなかったのである。政府軍の兵隊はこれに満足していた。何もむやみに危険に身をさらすことは無い……。
 だが、元締めの考えは違った。政府の高官は新憲法を発布して不安定な政情を解消しようとしていた。そのためには国民投票が必要であり、実施までの間に支配領域を拡大することが求められたのだ。
 どうせ公正な選挙では無い。対外的努力だろうが何だろうが、無駄な努力だと思う。しかし政府軍の動きは活発になり、投票に参加せよという宣伝活動をして回るようになった。やがて米軍が支援するようになり、時間が経つにつれて米軍が先頭に立つようになった。宣伝作戦はいつしか本格的な掃討作戦に変わってしまったのだ。
 我々、解放戦線地方軍の戦力は4月以来すり減っていた。消耗が激しく、村々の志願者たちを吸収してようやく成り立っていた。解放戦線正規軍がいなければ迎え撃つことは困難だったろう。実際のところ、彼らは北から越境してきた北ベトナム人民軍であり、我々とは比べ物にならないほどの精鋭だった。彼らは本拠地を守るために対空機銃部隊まで持ち込んでいて、その内の1挺が直接我々を支援してくれた。人民軍の兵士は血気盛んであり、南部を傀儡政権の手から解放するという強い意志に燃えていた。我々は彼らと上手くやっていくことができた。北部と南部では人々の性格も習慣も全く異なるが、共産主義がその仲立ちを果たしていたのである。

ベトベトマニア2 参戦記録 本戦回顧録

 20日ころから米軍が我々の地域に進出してきた。その動きは遅く、鈍かったが、その矛先は明らかに我々の喉首を指向している。米軍に対抗するため、我々は地雷を大量に仕掛け、歓迎の準備を整えた。村にいた農民は皆、安全な場所へと避難していたから、至る所に「死の卵」を仕掛けることができた。村の同志達は地雷をどこに仕掛ければ良いか、隅々まで理解していた。
 戦闘は25日の朝、政府軍の攻撃で始まった。偵察に出かけた人民軍が接敵したらしい。攻撃を受けて後退したことまではわかったが、それ以上の情報はなかった。
 というのも、その間に敵が村まで攻めてきたからだ。敵は少人数らしかったが、不意をついて我々の後方から攻撃を仕掛けてきた。そこは村に通ずる小道で、米軍はおろか政府軍さえ存在を知らないはずだった。人民軍の動向に注意を払っていた我々は、まさか後方から敵が現れるなど考えもしていなかった。今までは米軍も政府軍も、道を外れて行動することなど無かった。絶対に……。我々が敵に気付く前に、敵は有利な位置に移動した。それから何の前触れもなく、我々は銃撃を浴びたのである。何人かの同志が倒れたが、怯むことなくすぐに応戦を開始した。負傷者を助けに行った同志が追い撃ちをかけられて倒れる。我々は手持ちの火器で必死に戦った。敵は至近距離まで接近してきて、正確な射撃を繰り出してきた。やがて対空用の重機関銃を持った同志が小屋に銃架を据えて撃ち始めた。低めの射撃音は調子よく、あっという間に敵を圧倒する。敵も部が悪いと思ったのか、そのまま逃げていった。

ベトベトマニア2 参戦記録 本戦回顧録

 その後、人民軍が後退してきて、我々に合流した。先ほどの偵察部隊は米軍の特殊部隊であったらしく、秘密裏に潜入してきたらしいのだ。今も小道の先からこちらの様子を伺っているようだった。同時に米軍の主力も迫ってきており、政府軍も包囲網を狭めている。敵の機銃掃射は狙いが甘かったが、我々の位置を掴んでいた。我々の動きは抑制され、敵主力は徐々に迫りつつあった。
 乾坤一擲、先制攻撃で特殊部隊を撃破するしかない―――人民軍中尉の指揮で、特殊部隊に対する突撃が始まった。人民軍の一兵士が自ら先陣を切り、進路を切り開いていく。敵はたまらず、どんどん押し出されていった。
 しかし後からよくよく考えて見れば、これは罠だったのである。大鍋のど真ん中に入るまで誰も気づくことは無かった。人民軍中尉と先駆けの兵士のやり取りは皆が覚えている。特殊部隊を追い散らした兵士はその場で軍曹に昇進し、先ほど戦死した班長に代わって人民軍の分隊を率いることになった。その横隊に、我々解放戦線も追随する。
 程よく開けた空き地に出ると、いきなり射撃の嵐が始まった。我々の弾ではなく、アメリカ人の弾だった。我々は一気に劣勢になった。敵はこうなることを予想していたらしく、完璧な待ち伏せとなった。先頭を行く人民軍の分隊は半数が銃弾に倒れ、続く解放戦線も壊滅に等しい打撃を受けた。件の軍曹はやはり一番先頭にいて、今や敵地に孤立していた。四方八方から撃たれて、彼は革命のスローガンを叫びながら斃れた。
 彼の意志は引き継がれた。革命的な理想に燃える我々は苦境をものともせず、確固たる意志を持って反撃を開始したのだった。小道を通って村まで転進すると、我々は人民軍と別れ、個別に反撃行動をおこなった。米軍は我々を圧迫してきたが、重機関銃がここでも威力を発揮した。米軍に大きな被害を与えることに成功したのだ。アメリカ人にとっては破滅的な戦闘の後、我々は別行動を取っていた人民軍と合流する。そして敵の不意を突き、秘密の進入路を通って政府軍の背後に出ると、哨所をほぼ無血で占領した。
 これには米軍も驚いたようだ。実は、政府軍の一部が戦闘を放棄していたのだ。傀儡に等しい政権のために戦う気はない……彼らは命が惜しかったのだ。その一方で、哨所奪還の先頭に立っていたのも政府軍であった。政府軍将校の全てが汚職と腐敗にまみれているわけではなかったのである。南ベトナム市民の中には共産主義を憎悪する者も多く、親類や家族を殺された若者が赤い津波の防波堤になっていたのだ。
 故に哨所での攻防がもっとも激しい戦いとなり、政府軍はもともとの住処に肉薄してきた。人民軍と解放戦線は共同で戦線を構築し、資本主義の手先を迎撃する。政府軍はむしろ米軍よりも果敢に前進し、その分多くの犠牲を負った。米軍の重迫撃砲の砲撃が政府軍にも命中し、さらに血が流れる。隣にいた同志がアメリカ製の古い小銃を撃ちながら、「入れ食い状態だ」とつぶやいたのを覚えている。
 昼前に始まった哨所の戦いは、昼過ぎにはもう終焉に向かっていた。最後は米軍部隊の突撃で決着がついた。重迫撃砲が我々の戦力をそぎ落とし、仕上げに煙幕がアメリカ人の大柄なシルエットを覆い隠したのである。対空用の重機関銃は早い段階で破壊され、そのまま放棄するしかなかった。
 我々は追い散らされた。しかし米軍も大きな損害を負ったはずである。そして、もう1つ大きな戦果があった。人民軍が政府側の議員を捕らえることに成功したのである。何を考えていたか知らないが、政府側の議員が宣伝活動の視察に来ていたのだ。誰も止めなかったのか、あるいは敢えて止めなかったのかは定かでない。わかっているのは、議員が選挙の票を獲得しようと、傀儡政権のために動いていたことだけである。……振り返ってみると、それも本当か嘘かわからないが。

 哨所の戦いの後、心なしか米軍の動きが緩くなった。特殊部隊が支援を断たれて孤立し、我々は彼らを丘の上に追い詰めて殲滅した。同志の1人が「敵は後ろから来るのでは無いか?」と疑問を口にしたので、「いや、サイゴン軍は前方にいるはずだ。後方から来やしない」と返したが、同志の言が正しかったわけだ。特殊部隊は我々の背後から攻撃を仕掛けて来たが、ちょうどその辺りは地形と植生の関係で見通しが悪く、我々が容易に行動できることを知らなかったのである。もしかしたら敵特殊部隊は脱出を試みたのかもしれないが、いずれにしても米軍の主力は何の行動も見せなかった。
 目と鼻の先にいるのに、なぜ助けなかったのか……。おそらく例の議員が絡んでいたのだろう。それ以外には考えられない。事実、政府側が身代金を支払って議員を取り戻そうとしたらしいのだ。あの議員がどうなったのかはわからない。人民軍なら知っているかもしれないが……どこかの穴の中に埋めれらたのかもしれないし、案外まだ元気で生きているのかもしれない。

 時間が経つにつれ米軍は再び圧力を増し、村まで進出して来た。解放戦線の一部は敵地に突出した形となり、主力の方も村で武装解除されてしまった。だが遊撃戦闘を実施していた人民軍が奇襲を仕掛けて、逆に米兵を捕虜にした。解放戦線も素早く銃を掴んで体勢を整えた。
我々の優位は確固たるものになりつつあった。しかし同時に、弾薬が不足し始めていた。これ以上戦闘が長引けば、米軍と政府軍が有利になるだろう。南ベトナムの戦況は、実に簡単にひっくり返るものなのだ。
 そこで、人民軍と解放戦線は最後の共同作戦を実施することになった。丘で米軍を待ち伏せし、これを撃破しようというのだ。もう一度、打撃を与えれば米軍はしばらくの間ではあるが攻撃を控え、再編成に取り掛かるだろう。しばし休憩した後、我々は行軍を開始した。

ベトベトマニア2 参戦記録 本戦回顧録


 敵は長い隊列をつくって移動していた。我々は密かに即席陣地を構築し、わずかな自動火器で集中射撃を加えることとした。しかし敵は地獄の底から這い上がって来て、丘の上で決着をつけたのである。敵の士気は予想以上に高く、我々は思っていたよりも疲れていた。白兵戦は屈強なアメリカ人の独壇場となり、政府軍との近接戦闘も明らかな敗北で終わった。


 かくして我々はほうほうの体で転進し、この地域の革命勢力は一時的な苦境に立った。人民軍主力とも連絡がつかなくなり、かの人民軍中尉も政府軍の大佐に銃殺されたという噂である。もともと消耗していた解放戦線地方軍も壊滅的な打撃を受けた。多くの同志が密林の露と消え、村々はサイゴン政府の支配下に収まった。選挙はサイゴン政府の思惑通りに実施されるはずだ。
 とはいえこれは表面上の話である。実際には多くの同志が生き残っており、各地に分散して潜伏している。サイゴン政府の支配もすぐに有名無実と化すだろう。抑圧された人民は必ず立ち上がり、民族の誇りを取り返すだろう。
 三色の革命旗は再び青空に翻る。その日は決して遠くない。



ベトベトマニア2 参戦記録 本戦回顧録
△解放戦線戦士が所有していた記念写真
1966年9月、チバ省




……とまあ、ホントのような嘘の話です。

もっともらしく書いてありますが、要は「ぼくのかんがえたベトマニ2すとーりー」です。ご了承ください。

戦闘の内容の6割は実際の展開に沿っています。もちろん、自分が体験し得た範囲での話です。割愛したり、統合したり、時系列を変えたものもあります。実際には塹壕の占拠は失敗してたりします。


この回顧録風レポートを書くにあたり痛感したのは、自分の知識不足です。

軍装面もさることながら、時代背景や組織編成にも疎いこと疎いこと。何冊か新しい本(注:古い本です)を読みあさり、わずかながらも勉強いたしました。

現在のベトナム共産党政権下では、政治的な事情から解放民族戦線の役割が過小評価されているのですね。

未だに理解しきれていない事象が多いので、さらに学習していく予定です。



来年のベトマニまでにしなくてはならないことは多々あるようです。この記事も書きあげるのに一カ月もかかってしまいました。

今回とくに印象深かった出来事は、同志に銃を貸したこと、木箱が大活躍したことですかね。

カービン銃は素晴らしい。15連用の弾薬ポーチを格安で購入することができ、とてもラッキーでした。

次は解放戦線の戦闘服を手に入れたいですね。今回は人民軍の上着にブラックパジャマのパンツを組み合わせて地方軍っぽくしてみたのですが、やっぱり付け焼刃という感じです。黒と緑、両方を手に入れなければならないので出費がかさみます……。

あとは小物関係。木箱は素晴らしいものでしたが、中に入れるものをもって工夫しなければなりません。もう少し、オーパーツを失くしていきたいところです。

来年はベトマニ3に加え、ナムこれ3も実施されるそうですね。しかもフエの戦い。これはAKを持った地方軍の出番ではないでしょうか?現在、予算計画を立案中です。

アホカリ2017は人民軍の一兵士としてぜひ参加したい……。


ベトベトマニア2 参戦記録 本戦回顧録

社会人になってからというものの、最近は順調にストレスも溜まり、お肉120%増量の憂き目にあっています。軍装面、歴史背景だけでなく、健康的な体つくりも継続して行かないといけません。

と、言いながらドーナツとコーヒー牛乳をパクパク食べています。シナモンうめえ。

将来が不安になりつつ、今回はここらで筆を置くことにします。




ベトマニ2に参加された方々、企画された方々、フィールドオーナーさん、そして数字になった人々。今回もありがとうございました。












……文章構成が支離滅裂なような気がするんですが、治す気力がありません。山の上でひとり機器類を監視する仕事ないですかねぇ……。


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この記事へのコメント
すみませんでした! 共通の趣味があるとはいえ 和歌山の僕と 北海道の貴君が会える時間は とても貴重でしたのに!
次回に機会があれば最優先です
おおいに語らいましょう!

楽しい時間 愉快な同好の志
ベトベトが待ち遠しいです
Posted by カンベエ at 2016年11月27日 11:18
カンベエ様
コメントありがとうございます。
そう仰らないでください!自分が前後不覚になるほど酔っ払ったのが、そもそもの原因なのです……。本当に貴重な機会でありますのに。
次の機会ではテントの方を少し拝見したいと考えています。もしよろしければ、お願いいたします!
Posted by ラクの戦争は終わったラクの戦争は終わった at 2016年11月30日 00:03
 
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