2013年08月01日

時刻「W」ーワルシャワの時間が止まる日ー

時刻「W」……あなたはご存知でしょうか。知らなくても生きていく上では何の関係もない事ではあります。しかし、今日はそんな時刻「W」についてお話ししましょう。
私の心をしっかと掴んで離さぬ、ポーランド国民災厄の日々を……。

まず、時間のある方には3つの動画をご覧いただきたい。YouTubeに存在するこの3つの動画は、いずれもポーランドの首都ワルシャワで撮られた映像です。

もし時間のない方でも、3番目の動画をご覧になってください。きっと、ほとんどの方は頭を捻るでしょうから。

1939年
http://youtu.be/mdw1kmj1kW0

1944年
http://youtu.be/Grzo3i8WGhQ

現在
http://youtu.be/9w1jPC44_Oc

(iPhoneで記事を書いている関係で、見れないかもしれません)


ワルシャワで何が起きたかーーー。
もうわかったという人もいらっしゃるでしょう。既に知っておられる方もいらっしゃるでしょう。
しかし知らない方も多いでしょうから、拙い知識ですが説明をしてみようと思います。



1939年。ポーランドはドイツとその傀儡国家スロバキア、そしてソ連の侵攻を受け、あえなく敗北しました。
ポーランド政府は徹底抗戦を掲げてイギリスに亡命し、占領下のポーランドでは多数の抵抗運動が組織されました。国内軍と呼ばれる最大の組織もその一員です。

抵抗組織はドイツ軍に対するサボタージュを続けながら、ひたすら機会を待ちました。
「ドイツから祖国を取り返さなくてはいけない」。
1943年にはユダヤ人がワルシャワ・ゲットーで蜂起し、ドイツ軍に衝撃を与えます。ユダヤ人が彼らに立ち向かうとは、全く予想だにしていなかったからです。

そして1944年。ドイツ軍は東部戦線で大崩壊を起こし、ソ連軍は雪崩の如くポーランド国境へと押し寄せました。7月にはワルシャワまであとわずかのところに迫ります。

国内軍は決意しました。ソ連は5年前にドイツと共にポーランドを侵攻した国であるため、ポーランド自身の手でワルシャワを奪回することが必要だと。最終的にはソ連軍に頼らざるを得ないとしても、カチンの森事件をはじめとする「実績」があったため、ソ連は信用ならぬ国だったのです。

1944年8月1日、午後5時。国内軍をはじめとする在ポーランド対独抵抗組織は各地で決起しました。

主な戦場は首都ワルシャワでした。国内軍に限らず、ほとんどの抵抗組織は貧弱な武器しか持っていませんでした。数人に1丁の小銃があれば良い方で、拳銃すら貴重な武器だったのです。劣悪な装備でしたが、国内軍は戦死したドイツ兵や占領した兵舎から武器や被服を鹵獲し、一気に戦力を底上げします。このとき、国内軍は敵味方識別のため、鹵獲したヘルメットに帯を巻いたり、ポーランド国旗を袖に巻きました。市民もこの戦いに参加し、市街戦は拡大していきます。
イギリスもポーランド国内軍を支援するべく、輸送機で各種武装を輸送します。PIATはドイツ軍の戦車に対抗する上で欠かせない武器でした。

しかし、肝心のソ連軍は来ませんでした。スターリンが反ソ勢力の台頭を赦さず見棄てるためにソ連軍の前進を赦さなかったとも、また反ソ勢力が決定的勝利を収める前にソ連軍がワルシャワを解放することを求めたとも言われています。
いずれにせよソ連軍の最前線では損害の回復を優先し、前進することはなかったのです。在ソ亡命ポーランド軍のみが前進を許可されましたが、彼らだけでどうにかなる事ではありません。また、武装を投下するイギリス空軍輸送機の着陸給油も拒みました。それでもイギリスは物資の空中投下を続け、多数のイギリス人・ポーランド人パイロットが戦死しました。
ソ連軍が停止したまたとないチャンスを利用して、ドイツ軍は戦力の拡充に励み、その一方でワルシャワ蜂起を鎮圧するために大部隊を送ります。国内軍は老人や子供までもが戦いドイツ軍を防ごうとしますが、ドイツ軍はありとあらゆる部隊を送り込みます。セヴァストポリ要塞で活躍した自走臼砲カールすら投入し、大量の火砲・戦車・爆撃機の支援でドイツ軍は国内軍を圧倒、国内軍の支配領域は分断されます。包囲されてなお国内軍は勇敢に戦いを続け、地下道を使って移動を繰り返しました。


国内軍の戦いは63日間、実に2ヶ月間に及ぶ壮絶なものでした。

1944年10月3日、国内軍はイギリスの仲介により正規軍として降伏することが認められ、ドイツ軍は彼らを武装解除します。

そしてワルシャワは徹底的に破壊され、翌年の1月までドイツ軍が撤退することはありませんでした。


時刻「W」……それは、ポーランドの人々が銃を手に立ち上がった、まさにその瞬間を指しています。


今でもポーランドでは、毎年8月1日午後5時になると1分間に渡ってサイレンが響き渡ります。サイレンが鳴ると人々はその場に立ち止まり、かつて戦い死んでいった人々のことを想います。3番目の動画は、このときの様子を映したものなのです。

このサイレンは蜂起に参加した人々すべてに対する黙祷であり、またレクイエムでもあるのです。




あれはユダヤ人の言葉だったでしょうか。
「彼らは2回死んだ。最初に命を奪われ、次に存在を奪われた」
たしかそのような意図の言葉であったと思います。
忘れることが、戦った人々を2度殺すことになるという意味です。


知らなくても生きていける知識です。たかが数十年前の、それも遠い外国の死者に1分間を捧げる必要はありません。

それでも、いつか私は時刻「W」に参加するでしょう。なぜなら、私はワルシャワ蜂起にどうしようもなく魅せられているからです。
病的とさえ断言してもいい。


心の中の何かが叫ぶのです。
「彼らのことを忘れてはいけない」と……。


なぜワルシャワ蜂起なのか。

その答えは未だにわかりません。


日本時間の8月2日深夜零時、ないしはポーランド時間の8月1日午後5時。
時間が来たら、手を止めてみようと思います。




参考資料


わがポーランド ワイダ監督、激動の祖国を撮る (NHK取材班、日本放送出版協会)

戦場のピアニスト(ロナルド・ハーウッド/著、富永和子/訳、新潮文庫)

劇訳表示。 : 【サイレン】一年に1分間だけ時が止まる街・・・【ポーランド・ワルシャワ】(http://www.gekiyaku.com/lite/archives/13102429.html)

(「ワルシャワのサイレン」を最初に知ったきっかけは、この記事でした。この記事がなければずっと知らなかったでしょう。ありがとうございます)

ワルシャワ蜂起 - Wikipedia (http://ja.m.wikipedia.org/wiki/ワルシャワ蜂起)

ワルシャワ・ゲットー蜂起 - Wikipedia (http://ja.m.wikipedia.org/wiki/ワルシャワ・ゲットー蜂起)

ソ連軍資料館:スタフカ代表ジューコフ (http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/5870/predstaviteli.html)

戦場のピアニスト (ロマン・ポランスキー監督、2002年仏独英波合作)

地下水道(アンジェイ・ワイダ監督、1956年波)







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Posted by ラクの戦争は終わった at 15:46│Comments(2)ポーランド国内軍動画紹介
この記事へのコメント
はじめまして。
私は先日NHK衛星の世界のドキュメントのような番組で時刻Wを見ました
サッカードイツ代表クローゼやショパンが好きなのでポーランドには興味がありましたが。
国や大事な人を守るため、小さな子供までもがバリケードを築いて戦った記録はショックでした
同時に今生きているのか分からないけど屈託ない笑顔を浮かべてる人が多く、それだけは救いでした

実は、私はパワハラ防止の政策提言をやっていこうという素人です
みんなで力を合わせて巨大な敵にノーをつきつけた、時刻Wの話は本当に希望の光であり、勇気をもらいました
良い記事をありがとうございます
Posted by ZENMYO7 at 2014年11月25日 18:35
ZENMYO7さん、はじめまして。コメントありがとうございます。

対戦車バリケードの横で倒れている子供の伝令の写真を見たときは、衝撃を受けました。7歳かそこらの小さな子がヘルメットを被ったまま横たわり、どす黒い血が広がっている光景に身がすくむ思いでした。

そこまでして何を護らなければならなかったのか、人々は……考えは尽きません。

私の書いた文章が少しでもお役に立てたようで、とても嬉しいです。重ねて申し上げますが、コメントをありがとうございました。

たとえ風車に立ち向かうドンキホーテだと小馬鹿にされても、絶望的な状況を前に立ち上がる事自体が、価値あることだと私は思います。
時刻Wの戦士たちのように……
Posted by ラクラク at 2014年12月06日 01:33
 
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