2013年08月17日
サバゲキャンプ08/14&08/15
08/15観たい。
どうも、絶賛だらけ中のラクです。サバゲ+キャンプに行ってきたのでその報告になりゃす。
なんか似たような写真ばかりで、いっぱい撮ったにも関わらず少ないイメージ。
さて、試験期間中にこのような大型の砦が建設されました!
残念ながら初回作業には参加できなかったものの、2回目の作業には参加できました。
どうですかこの堂々たる面構え!名実ともに要塞でありました!
今度フィールド紹介みたいな記事でも書こうかと思っているので(どうも私はPK中隊のように捉えられているようですし)、詳細はそんときに。
何も語らない、というのもアレなので雑感。
14日は5人前後、15日は10人前後でゲームを行ったのですが、いつものゲームとは全く違う展開でした。
いつもなら終始静かで、いきなり戦闘が始まり……という感じなので、少人数だと接敵に苦労します。
ところが「砦」という大きな存在のおかげで開始後すぐに激しい撃ち合いが始まるわけです。
砦は真正面からの攻撃に対してほぼ無敵で、攻略には左右に迂回する必要があります。
砦も無敵ではなく、1人で守るのはほぼ不可能です。
フラッグの位置を変えるだけでかなりゲームの流れが変わるので、いろいろな遊びが考えられそうです。
あと、砦の正面と左側面には塹壕があります。
ももかさんが小型パワーショベル(ユンボって言うんですね。幼い頃みた絵本にはバックホウとか書いてあったような……)で塹壕を掘ってくださいました。ありがとうございます!
まさに塹壕、パッシェンデール!この中に籠もれば百人力!
と言いたいところですが、現時点ではただの堀、もしくは撮影用(-×-)
まだまだ改良が必要です。
しかしまぁ……。
どうですかこの雰囲気!サバゲする気まるでなし!
(ゆら公の妄想ですかそうですか)
あとは木登りができるようになって、索敵がしやすくなったり。
(ガイドをつけたわけですな)
それにしても砦の存在はかなり大きいです。大人数での砦攻防戦をいつかやってみたいです……50人対10人くらいでw
戦車が要るな……
あと、どっちかというと焼き肉とキャンプがメインなのでその様子をば。
みんなで持ち寄ってみんなで食う。隊長が仰っていて思いましたが、「しがらみの無い人間関係」っていいですね!
何しろ下は高校生、上は50代目前と、幅広い層の人々がわいわいがやがや火を囲むわけですから。
(サバゲに参加しない人も含むと老人以外みんなですよ)
夜には別のフィールドからの訪問者も何名か来られたので、駐車場はテントと車でいっぱいになりました!
あ、あと地味に重要な追加事項。
トイレが完成しました!
でも写真が無い(-×-;)
撮ったハズなんだけどなぁ……。
まあ、そこらも含めて今度サバゲに行ったらいろいろ撮ってきますので、ご期待ください!
いや、期待しろよ!城と言っているんだッッッ!!!
追伸
私たちのフィールドに来たいなーと言う方。
気軽にコメントなりメールなりメッセージなり狼煙なりをくださいな。
(アイルランド語、ルーマニア語での交渉は読み書きできる者がいないのでできるだけご遠慮ください。)
門は開かれてますぞ!
さらに追伸
今後の更新予定(と言う名の願望)
・麻ひもで作るヘルメットの偽装
・UZIの50連弾倉
・フィールド紹介(写真撮ったら)
夜戦用の新しいフィールドも出来たらしくて、チョット気になる。
仕事や育児で忙しい方でも、夜戦ならどうでしょうか?
というわけでさらばさらば。
どうも、絶賛だらけ中のラクです。サバゲ+キャンプに行ってきたのでその報告になりゃす。
なんか似たような写真ばかりで、いっぱい撮ったにも関わらず少ないイメージ。
さて、試験期間中にこのような大型の砦が建設されました!
残念ながら初回作業には参加できなかったものの、2回目の作業には参加できました。
どうですかこの堂々たる面構え!名実ともに要塞でありました!
今度フィールド紹介みたいな記事でも書こうかと思っているので(どうも私はPK中隊のように捉えられているようですし)、詳細はそんときに。
何も語らない、というのもアレなので雑感。
14日は5人前後、15日は10人前後でゲームを行ったのですが、いつものゲームとは全く違う展開でした。
いつもなら終始静かで、いきなり戦闘が始まり……という感じなので、少人数だと接敵に苦労します。
ところが「砦」という大きな存在のおかげで開始後すぐに激しい撃ち合いが始まるわけです。
砦は真正面からの攻撃に対してほぼ無敵で、攻略には左右に迂回する必要があります。
砦も無敵ではなく、1人で守るのはほぼ不可能です。
フラッグの位置を変えるだけでかなりゲームの流れが変わるので、いろいろな遊びが考えられそうです。
あと、砦の正面と左側面には塹壕があります。
ももかさんが小型パワーショベル(ユンボって言うんですね。幼い頃みた絵本にはバックホウとか書いてあったような……)で塹壕を掘ってくださいました。ありがとうございます!
まさに塹壕、パッシェンデール!この中に籠もれば百人力!
と言いたいところですが、現時点ではただの堀、もしくは撮影用(-×-)
まだまだ改良が必要です。
しかしまぁ……。
どうですかこの雰囲気!サバゲする気まるでなし!
(ゆら公の妄想ですかそうですか)
あとは木登りができるようになって、索敵がしやすくなったり。
(ガイドをつけたわけですな)
それにしても砦の存在はかなり大きいです。大人数での砦攻防戦をいつかやってみたいです……50人対10人くらいでw
戦車が要るな……
あと、どっちかというと焼き肉とキャンプがメインなのでその様子をば。
みんなで持ち寄ってみんなで食う。隊長が仰っていて思いましたが、「しがらみの無い人間関係」っていいですね!
何しろ下は高校生、上は50代目前と、幅広い層の人々がわいわいがやがや火を囲むわけですから。
(サバゲに参加しない人も含むと老人以外みんなですよ)
夜には別のフィールドからの訪問者も何名か来られたので、駐車場はテントと車でいっぱいになりました!
あ、あと地味に重要な追加事項。
トイレが完成しました!
でも写真が無い(-×-;)
撮ったハズなんだけどなぁ……。
まあ、そこらも含めて今度サバゲに行ったらいろいろ撮ってきますので、ご期待ください!
いや、期待しろよ!城と言っているんだッッッ!!!
追伸
私たちのフィールドに来たいなーと言う方。
気軽にコメントなりメールなりメッセージなり狼煙なりをくださいな。
(アイルランド語、ルーマニア語での交渉は読み書きできる者がいないのでできるだけご遠慮ください。)
門は開かれてますぞ!
さらに追伸
今後の更新予定(と言う名の願望)
・麻ひもで作るヘルメットの偽装
・UZIの50連弾倉
・フィールド紹介(写真撮ったら)
夜戦用の新しいフィールドも出来たらしくて、チョット気になる。
仕事や育児で忙しい方でも、夜戦ならどうでしょうか?
というわけでさらばさらば。
2013年08月01日
時刻「W」ーワルシャワの時間が止まる日ー
時刻「W」……あなたはご存知でしょうか。知らなくても生きていく上では何の関係もない事ではあります。しかし、今日はそんな時刻「W」についてお話ししましょう。
私の心をしっかと掴んで離さぬ、ポーランド国民災厄の日々を……。
まず、時間のある方には3つの動画をご覧いただきたい。YouTubeに存在するこの3つの動画は、いずれもポーランドの首都ワルシャワで撮られた映像です。
もし時間のない方でも、3番目の動画をご覧になってください。きっと、ほとんどの方は頭を捻るでしょうから。
1939年
http://youtu.be/mdw1kmj1kW0
1944年
http://youtu.be/Grzo3i8WGhQ
現在
http://youtu.be/9w1jPC44_Oc
(iPhoneで記事を書いている関係で、見れないかもしれません)
ワルシャワで何が起きたかーーー。
もうわかったという人もいらっしゃるでしょう。既に知っておられる方もいらっしゃるでしょう。
しかし知らない方も多いでしょうから、拙い知識ですが説明をしてみようと思います。
1939年。ポーランドはドイツとその傀儡国家スロバキア、そしてソ連の侵攻を受け、あえなく敗北しました。
ポーランド政府は徹底抗戦を掲げてイギリスに亡命し、占領下のポーランドでは多数の抵抗運動が組織されました。国内軍と呼ばれる最大の組織もその一員です。
抵抗組織はドイツ軍に対するサボタージュを続けながら、ひたすら機会を待ちました。
「ドイツから祖国を取り返さなくてはいけない」。
1943年にはユダヤ人がワルシャワ・ゲットーで蜂起し、ドイツ軍に衝撃を与えます。ユダヤ人が彼らに立ち向かうとは、全く予想だにしていなかったからです。
そして1944年。ドイツ軍は東部戦線で大崩壊を起こし、ソ連軍は雪崩の如くポーランド国境へと押し寄せました。7月にはワルシャワまであとわずかのところに迫ります。
国内軍は決意しました。ソ連は5年前にドイツと共にポーランドを侵攻した国であるため、ポーランド自身の手でワルシャワを奪回することが必要だと。最終的にはソ連軍に頼らざるを得ないとしても、カチンの森事件をはじめとする「実績」があったため、ソ連は信用ならぬ国だったのです。
1944年8月1日、午後5時。国内軍をはじめとする在ポーランド対独抵抗組織は各地で決起しました。
主な戦場は首都ワルシャワでした。国内軍に限らず、ほとんどの抵抗組織は貧弱な武器しか持っていませんでした。数人に1丁の小銃があれば良い方で、拳銃すら貴重な武器だったのです。劣悪な装備でしたが、国内軍は戦死したドイツ兵や占領した兵舎から武器や被服を鹵獲し、一気に戦力を底上げします。このとき、国内軍は敵味方識別のため、鹵獲したヘルメットに帯を巻いたり、ポーランド国旗を袖に巻きました。市民もこの戦いに参加し、市街戦は拡大していきます。
イギリスもポーランド国内軍を支援するべく、輸送機で各種武装を輸送します。PIATはドイツ軍の戦車に対抗する上で欠かせない武器でした。
しかし、肝心のソ連軍は来ませんでした。スターリンが反ソ勢力の台頭を赦さず見棄てるためにソ連軍の前進を赦さなかったとも、また反ソ勢力が決定的勝利を収める前にソ連軍がワルシャワを解放することを求めたとも言われています。
いずれにせよソ連軍の最前線では損害の回復を優先し、前進することはなかったのです。在ソ亡命ポーランド軍のみが前進を許可されましたが、彼らだけでどうにかなる事ではありません。また、武装を投下するイギリス空軍輸送機の着陸給油も拒みました。それでもイギリスは物資の空中投下を続け、多数のイギリス人・ポーランド人パイロットが戦死しました。
ソ連軍が停止したまたとないチャンスを利用して、ドイツ軍は戦力の拡充に励み、その一方でワルシャワ蜂起を鎮圧するために大部隊を送ります。国内軍は老人や子供までもが戦いドイツ軍を防ごうとしますが、ドイツ軍はありとあらゆる部隊を送り込みます。セヴァストポリ要塞で活躍した自走臼砲カールすら投入し、大量の火砲・戦車・爆撃機の支援でドイツ軍は国内軍を圧倒、国内軍の支配領域は分断されます。包囲されてなお国内軍は勇敢に戦いを続け、地下道を使って移動を繰り返しました。
国内軍の戦いは63日間、実に2ヶ月間に及ぶ壮絶なものでした。
1944年10月3日、国内軍はイギリスの仲介により正規軍として降伏することが認められ、ドイツ軍は彼らを武装解除します。
そしてワルシャワは徹底的に破壊され、翌年の1月までドイツ軍が撤退することはありませんでした。
時刻「W」……それは、ポーランドの人々が銃を手に立ち上がった、まさにその瞬間を指しています。
今でもポーランドでは、毎年8月1日午後5時になると1分間に渡ってサイレンが響き渡ります。サイレンが鳴ると人々はその場に立ち止まり、かつて戦い死んでいった人々のことを想います。3番目の動画は、このときの様子を映したものなのです。
このサイレンは蜂起に参加した人々すべてに対する黙祷であり、またレクイエムでもあるのです。
あれはユダヤ人の言葉だったでしょうか。
「彼らは2回死んだ。最初に命を奪われ、次に存在を奪われた」
たしかそのような意図の言葉であったと思います。
忘れることが、戦った人々を2度殺すことになるという意味です。
知らなくても生きていける知識です。たかが数十年前の、それも遠い外国の死者に1分間を捧げる必要はありません。
それでも、いつか私は時刻「W」に参加するでしょう。なぜなら、私はワルシャワ蜂起にどうしようもなく魅せられているからです。
病的とさえ断言してもいい。
心の中の何かが叫ぶのです。
「彼らのことを忘れてはいけない」と……。
なぜワルシャワ蜂起なのか。
その答えは未だにわかりません。
日本時間の8月2日深夜零時、ないしはポーランド時間の8月1日午後5時。
時間が来たら、手を止めてみようと思います。
参考資料
わがポーランド ワイダ監督、激動の祖国を撮る (NHK取材班、日本放送出版協会)
戦場のピアニスト(ロナルド・ハーウッド/著、富永和子/訳、新潮文庫)
劇訳表示。 : 【サイレン】一年に1分間だけ時が止まる街・・・【ポーランド・ワルシャワ】(http://www.gekiyaku.com/lite/archives/13102429.html)
(「ワルシャワのサイレン」を最初に知ったきっかけは、この記事でした。この記事がなければずっと知らなかったでしょう。ありがとうございます)
ワルシャワ蜂起 - Wikipedia (http://ja.m.wikipedia.org/wiki/ワルシャワ蜂起)
ワルシャワ・ゲットー蜂起 - Wikipedia (http://ja.m.wikipedia.org/wiki/ワルシャワ・ゲットー蜂起)
ソ連軍資料館:スタフカ代表ジューコフ (http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/5870/predstaviteli.html)
戦場のピアニスト (ロマン・ポランスキー監督、2002年仏独英波合作)
地下水道(アンジェイ・ワイダ監督、1956年波)
私の心をしっかと掴んで離さぬ、ポーランド国民災厄の日々を……。
まず、時間のある方には3つの動画をご覧いただきたい。YouTubeに存在するこの3つの動画は、いずれもポーランドの首都ワルシャワで撮られた映像です。
もし時間のない方でも、3番目の動画をご覧になってください。きっと、ほとんどの方は頭を捻るでしょうから。
1939年
http://youtu.be/mdw1kmj1kW0
1944年
http://youtu.be/Grzo3i8WGhQ
現在
http://youtu.be/9w1jPC44_Oc
(iPhoneで記事を書いている関係で、見れないかもしれません)
ワルシャワで何が起きたかーーー。
もうわかったという人もいらっしゃるでしょう。既に知っておられる方もいらっしゃるでしょう。
しかし知らない方も多いでしょうから、拙い知識ですが説明をしてみようと思います。
1939年。ポーランドはドイツとその傀儡国家スロバキア、そしてソ連の侵攻を受け、あえなく敗北しました。
ポーランド政府は徹底抗戦を掲げてイギリスに亡命し、占領下のポーランドでは多数の抵抗運動が組織されました。国内軍と呼ばれる最大の組織もその一員です。
抵抗組織はドイツ軍に対するサボタージュを続けながら、ひたすら機会を待ちました。
「ドイツから祖国を取り返さなくてはいけない」。
1943年にはユダヤ人がワルシャワ・ゲットーで蜂起し、ドイツ軍に衝撃を与えます。ユダヤ人が彼らに立ち向かうとは、全く予想だにしていなかったからです。
そして1944年。ドイツ軍は東部戦線で大崩壊を起こし、ソ連軍は雪崩の如くポーランド国境へと押し寄せました。7月にはワルシャワまであとわずかのところに迫ります。
国内軍は決意しました。ソ連は5年前にドイツと共にポーランドを侵攻した国であるため、ポーランド自身の手でワルシャワを奪回することが必要だと。最終的にはソ連軍に頼らざるを得ないとしても、カチンの森事件をはじめとする「実績」があったため、ソ連は信用ならぬ国だったのです。
1944年8月1日、午後5時。国内軍をはじめとする在ポーランド対独抵抗組織は各地で決起しました。
主な戦場は首都ワルシャワでした。国内軍に限らず、ほとんどの抵抗組織は貧弱な武器しか持っていませんでした。数人に1丁の小銃があれば良い方で、拳銃すら貴重な武器だったのです。劣悪な装備でしたが、国内軍は戦死したドイツ兵や占領した兵舎から武器や被服を鹵獲し、一気に戦力を底上げします。このとき、国内軍は敵味方識別のため、鹵獲したヘルメットに帯を巻いたり、ポーランド国旗を袖に巻きました。市民もこの戦いに参加し、市街戦は拡大していきます。
イギリスもポーランド国内軍を支援するべく、輸送機で各種武装を輸送します。PIATはドイツ軍の戦車に対抗する上で欠かせない武器でした。
しかし、肝心のソ連軍は来ませんでした。スターリンが反ソ勢力の台頭を赦さず見棄てるためにソ連軍の前進を赦さなかったとも、また反ソ勢力が決定的勝利を収める前にソ連軍がワルシャワを解放することを求めたとも言われています。
いずれにせよソ連軍の最前線では損害の回復を優先し、前進することはなかったのです。在ソ亡命ポーランド軍のみが前進を許可されましたが、彼らだけでどうにかなる事ではありません。また、武装を投下するイギリス空軍輸送機の着陸給油も拒みました。それでもイギリスは物資の空中投下を続け、多数のイギリス人・ポーランド人パイロットが戦死しました。
ソ連軍が停止したまたとないチャンスを利用して、ドイツ軍は戦力の拡充に励み、その一方でワルシャワ蜂起を鎮圧するために大部隊を送ります。国内軍は老人や子供までもが戦いドイツ軍を防ごうとしますが、ドイツ軍はありとあらゆる部隊を送り込みます。セヴァストポリ要塞で活躍した自走臼砲カールすら投入し、大量の火砲・戦車・爆撃機の支援でドイツ軍は国内軍を圧倒、国内軍の支配領域は分断されます。包囲されてなお国内軍は勇敢に戦いを続け、地下道を使って移動を繰り返しました。
国内軍の戦いは63日間、実に2ヶ月間に及ぶ壮絶なものでした。
1944年10月3日、国内軍はイギリスの仲介により正規軍として降伏することが認められ、ドイツ軍は彼らを武装解除します。
そしてワルシャワは徹底的に破壊され、翌年の1月までドイツ軍が撤退することはありませんでした。
時刻「W」……それは、ポーランドの人々が銃を手に立ち上がった、まさにその瞬間を指しています。
今でもポーランドでは、毎年8月1日午後5時になると1分間に渡ってサイレンが響き渡ります。サイレンが鳴ると人々はその場に立ち止まり、かつて戦い死んでいった人々のことを想います。3番目の動画は、このときの様子を映したものなのです。
このサイレンは蜂起に参加した人々すべてに対する黙祷であり、またレクイエムでもあるのです。
あれはユダヤ人の言葉だったでしょうか。
「彼らは2回死んだ。最初に命を奪われ、次に存在を奪われた」
たしかそのような意図の言葉であったと思います。
忘れることが、戦った人々を2度殺すことになるという意味です。
知らなくても生きていける知識です。たかが数十年前の、それも遠い外国の死者に1分間を捧げる必要はありません。
それでも、いつか私は時刻「W」に参加するでしょう。なぜなら、私はワルシャワ蜂起にどうしようもなく魅せられているからです。
病的とさえ断言してもいい。
心の中の何かが叫ぶのです。
「彼らのことを忘れてはいけない」と……。
なぜワルシャワ蜂起なのか。
その答えは未だにわかりません。
日本時間の8月2日深夜零時、ないしはポーランド時間の8月1日午後5時。
時間が来たら、手を止めてみようと思います。
参考資料
わがポーランド ワイダ監督、激動の祖国を撮る (NHK取材班、日本放送出版協会)
戦場のピアニスト(ロナルド・ハーウッド/著、富永和子/訳、新潮文庫)
劇訳表示。 : 【サイレン】一年に1分間だけ時が止まる街・・・【ポーランド・ワルシャワ】(http://www.gekiyaku.com/lite/archives/13102429.html)
(「ワルシャワのサイレン」を最初に知ったきっかけは、この記事でした。この記事がなければずっと知らなかったでしょう。ありがとうございます)
ワルシャワ蜂起 - Wikipedia (http://ja.m.wikipedia.org/wiki/ワルシャワ蜂起)
ワルシャワ・ゲットー蜂起 - Wikipedia (http://ja.m.wikipedia.org/wiki/ワルシャワ・ゲットー蜂起)
ソ連軍資料館:スタフカ代表ジューコフ (http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/5870/predstaviteli.html)
戦場のピアニスト (ロマン・ポランスキー監督、2002年仏独英波合作)
地下水道(アンジェイ・ワイダ監督、1956年波)