2015年05月23日
ベトベトしま戦か?18 最終戦 サイゴン陥落 従軍記 【ヒストリカル】(2015/5/24改訂)
こんにちは。ラクです。
後述しますが後遺症がひどいのです。
いつも読んでくださる全国3人の読者様、お待たせしました。
ようやく帰ってまいりました。
GWのサバゲ記事は写真の消息が不明なため、見合わせます(いずれ更新します)。
はい、というわけで、関東圏移住後、はじめてのサバゲ……もといヒストリカルゲームについてレポートしていきたいと思います。
あれはサバゲではありません。
あれは、確かに南ベトナムのサイゴンでした。
ベトベトしま戦か?公式サイト
http://vietviet.nomaki.jp/
続きへどうぞ。(この集合写真は北側隊長を勤められたヴィンさんから頂きました。この場を借りてお礼申し上げます)
2015/05/24改訂
全体集合写真を追加、また動画リンクを設置し、いくつかエピソードなどを加えました。
ガタン、ガタン……揺れる電車の中で、私は千葉の景色を堪能していました。あれは、5月16日のことです。
16日。そうです、あれからまだ1週間しか経っていないのです!
なんという驚き、あの濃密な時間!
あれほどの素晴らしい時間は、今までにありませんでした。
さて、どこからお話しましょうか……。
ベトベトを知ったところからお話しましょうか?
少し長いので、飛ばしたい方は次の写真までスクロール願います。
ベトベトしませんかを知ったのはだいぶ昔、まだ18歳に満たない頃でした。その頃は今のように就職もしていなければ高専も卒業しておらず、したがって私は中学生の小童でありました。
その頃から戦争には興味がありましたが、まあネトウヨみたいな感じでもあったので、詳しい話は伏せましょう。
いわゆる「クソガキ」時分です(笑)
参加できるはずもないサバゲやリエナクトについてアレコレ想像を膨らませる中、どういうわけか私はベトベトしま戦か?の公式サイトにたどり着いたのです。
そのときは「ふーん(鼻ホジ)」程度の理解でありました。(ぶん殴りたい)
ベトナム戦争なんか、まったく興味のない頃でしたから。
しかし、その覚えやすい名前と、ヤミカルト・ポーカさんの「うそれぽ」がいつまでも記憶の片隅に残っていたのです。
http://usorepo.web.fc2.com/
余談ですが、うそれぽの写真、てっきり執筆者の方だと思っておりました。現地でようやく理解したのですが……。
さらに余談ですが、当ブログはかの「うそれぽ」から多大なインスピレーションを受けて制作されております。
さて、時間を最近まで戻します。
高専に入り、サバゲができる年齢になると、当然ながら私はサバゲを始めました。
様々な紆余曲折の末、私は「ももか工兵軍曹殿」に出会うことになります。
工兵軍曹殿は本土において、アホカリプスなどのナム戦イベントに参加なされた方でした。
どうやらベトベトしま戦かにも、河川敷の頃に参加されていたようです。
重機で陣地をつくっていったこと、味方の誤爆によって小隊の半分が消し飛んだ日、フィールドに向かうトラックに乗っていった思い出……さまざまな思い出話を拝聴しました。まさかトラック便乗の話に近いことを、後日私が追体験するだろうとは、このときは夢にも思いませんでした。
この頃から、私はWW2一辺倒ではなくなります。徐々に、ナム戦時代に興味を持つようになっていったのです。
まあ、工兵軍曹殿のように米軍側には傾かなかったのですが。
何度も送り迎えをしてくださった「全国大会さん」をはじめとして、何人かのナム戦装備の方がおられたのも一因でしょう。てゆうか間違いないです。
そんなこんなで、ハンバーガー・ヒルを繰り返し見るような、今の自分が誕生していったのです。
そして就職し、上京を果たしました。その矢先に悲報が飛び込んできたのです。
「ベトベトしま戦か?は今回で最終戦です」
本来、私は7月までサバゲやイベントに参加しないつもりでした。
しかし、最終戦です。もうあとはありません。
そして私は参加を決定し、切符を手に入れました。
南ベトナム、サイゴン行きの切手です。時差は40年と1時間。夢のような切符です。
はいここまでスクロールした方、手を上げてください。正しい行為ですが銃殺刑に値します。
とか言いつつ、ようやく本題に入りましょう。
16日は鉄道移動によって佐原市まで移動しました。千葉からは銚子経由で来ましたが、風景の美しいことと言ったらないですねえ。これで車両が旧型だったら満点なんですが。
銚子電鉄には寄らず、そのまま目的地近くの駅まで移動しました。少し寄りたかった……。
田んぼってすごく珍しいんですよ。湿原ばかりの場所で暮らしてきましたし、あっても酪農だったり、十勝平野はじゃがいも畑ばかりでしたから。
ちなみにこれが故郷、北の根拠地の風景で……
本題に入ってねえ!
まあ、そんなこんなで佐原駅に着いたのでした。自動改札機に通せんぼされましたがw
少し早く着いたので、幸か不幸か、私は歩き始めることにしたのです。
……やるひとはやるんです。
「次のバスは45分後かぁ。バス代節約できるし、次の次くらいまで歩いとこう!」
というドケチ思考回路。
まあ、駅前にうら若き女子高生が大勢いて動揺したのが一因でもあるのですがw
とにかく時間をつぶすために歩き始めたのです。
しかしこれは間違いであり、正解でした。
16日の天候は曇りでしたが、大量の荷物を背負った状態で歩くのは大変な労力が必要でした。
行程の3割も行かないところで私はギブアップし、手近なバス停で待つことにしたのです。
リュックサックの水分を消費して重さを減らしつつ、ぶらぶらバスを待っていると、不思議な車が見えました。
どう見てもオリーブドラブに塗られたバンで、瞬時に察しました。「仲間だ」。
その車が走り去っていく間際に、背面のステンシルが読み取れます。U.S.Army。間違いない、ベトベトの人ですね。
と、しばらくして、その車が反対車線を走っていくのです。おや?なんだろう。
と、さらにしばらくすると、その車がやってきて、ハザードランプを出したのです。
そして、助手席から2つの爽やかな顔がこちらを覗いて、こう仰いました。
「ベトベトですか?」
こうして私は、ガラナファクトリーさんとお知り合いになったのです。なんと劇的な出会いでしょうか!
一番重要なのは赤坂台バス停からの30分を歩かなくてすむという事実でしたw
端折ります(切捨御免)
ベトベト会場についてからは、しばらくの間、挙動不審でした。
なにしろ関東で始めての参加イベント、しかもヒストリカル戦です。サバゲ参加人数は20人がせいぜいという、釧路の中の蛙にとっては驚きの土地でした。100人以上の人びとが、しかも同じベトナム戦争の装備をした人びとが集結しているのですから。
しばらくは同じ場所に座って、ただ周りを眺めているだけでした。コミュ障乙。
ようやく歩き出して、受付の列に並ぶと、ツイッタで見知った方に出会いました。しゅれさんでした。
おかげ様でようやくコミュ障から解放……されなかったのですが、まあ少しは馴染むことができました。
ここに来てようやく当日の写真です。なお、モザイク加工兼用としてモノクロ加工を施しています。ご了承ください。
前夜祭は素晴らしいの一言でした。3月くらいから地獄の黙示録を観たり、「うそれぽ」で予習をしたりしていたので、慰問ショウは最高の極みでした!ダンサーの方々が踊るだけで、会場はヒートアップしました。
腕相撲大会はあるし、その優勝者の女性ヴェトコンの方はダンサーの方に「サービス」されておられましたし(すごいセクシィでした)。
敗者はご褒美という名の罰ゲーム……かと思いきや、出できたのは女王様ではなく南側のチ大佐(笑)
「(罰ゲームの‘‘しょんべんビール‘‘を手に取り) あれ、これ本物だよォ!」
前夜祭は本当に楽しゅうございましたw
その流れを撮影された方 (茨城「現代鉄砲ブチ文化研究会」shiba_shigeo 様)が動画をアップロードしておられるので、勝手にリンクを貼ります。
ベトベトしま戦か?最終回 前夜祭①「奇蹟のカーニバル」 https://youtu.be/i2pfbF4ycW4
ベトベトしま戦か?最終回 前夜祭②「ベトベト最強の女と最弱の男」 https://youtu.be/phHw4eQqi0I
……「サービス」シーンはものくそ盛り上がっておりましたw
ちなみに私はファン・バー・タンという名前で参加しておりました。動画にもチロッと出ております。
その後は飲み会モードに突入しました。
私はまたコミュ障……ではなく遠慮をして一歩下がっていたのですが、ソコロヴィッチさんだったか、マンダリンさんだったか、どなたかが私を席に導いてくださいました。
それからのことはよく覚えていませんが、覚えています(謎)
確かスペシャル・ジン・カクテルを飲んだ気がします。ジンにジンを注いだ奴です。
持参した鮭とばで、道南から来られたマンダリンさんを懐柔したような気もしますw
中には入りませんでしたが、アオザイ・バーも開設されてましたね。超満員でした。
また端折りました。
17日は「Goooooooood Mooooooning, Vietnaaaaam!」というDJクロンナウアのラジオ放送で目覚め……ませんでした。予想外に寒くて5時半には起きてたような気がしますw
その後、サイゴンのマーケットでデモリション・バッグと水筒カバーを買い、自分の装備を整えました。
当日はこんな感じでした。
もともと、私はKar98kを装備する予定でした。これは北の根拠地にいたときに作ったもので、今は劇団長アオタ閣下に譲渡しています。
上京時に大多数の装備を人にあげたので、借りるという形になったわけですね。Vsr-10を組み込んだもので、性能はあまりよくありません。劇団長のおかげで撃てるようにはなりましたが……。
しかし、GWに帰郷した折、工兵軍曹殿が「ベトベトに行くならこれを持っていけ」とM79を貸してくださったのです!
M79に加え、ナイロンベルトなど、いくつかの装備品を頂きました。
(ナイロンベルトは頂くときに「うーん……ベトベトだし大丈夫だろう」と仰っていました。案の定、朝の装備チェックで「これは……ナイロンか」と指摘を受けましたが、「まあいっか♪」「北側の装備はわからんのです!」ということでした。今度、あたらしいベルトをチョッパらないと)
また、劇団長からブラックパジャマのレプリカを頂きました。
「1回使って満足したのでいいですよ(本人談)」
劇団長という人物は私のいた北斗P.O.Sフィールドの隠れ看板のような存在です。
どのような人物であるかは、このユーモアあふれるブラックパジャマの渡し方でお分かりになられると思います。
そんなこんなで、M79に40mmカート5本でベトベトに出撃したのでした。
これは朝の北側部隊編成時の写真です。しゅれ同志やビフィスズ菌さん、ぎむれいさんの姿が確認できます。
当日の北側参加者数は50名超!非戦闘員を除外しても、その戦力は南側に負けるとも劣りません。
ダッコン特殊部隊、正規軍部隊、解放戦線に分かれての行動が決まりました。
当然、私は解放戦線所属と相成りました。
それにしてもルール寸劇は爆笑でした。
至近にハンバーガー・ヒルとフルメタル・ジャケットを見ていたので、ネタに次ぐネタでもう笑いの渦ですw
「彼の名前はハンだ」
「え、だれ」
「どこにいるの」
「いた!ハン遠い!」
あれ、ものすごい練習なされていますよね。お疲れ様です。
ベトベトしま戦か?最終回 番外編③「ハンが来る!」 https://youtu.be/Q_w8_ZQNWaI
現時点(2015/05/24)では、動画はここまでしか投稿されていないようです。続きが気になりますね!
作戦行動前の一こま。古参兵の方々です。この後、北側の作戦会議がおこなわれ、戦闘行動が開始されました。
ここからは公式の地図を併用して説明していきます。なくてもわかるとは思いますが……。
http://vietviet.nomaki.jp/html/vietviet_area_map1970.pdf
今回はサイゴン陥落後、つまりベトナム戦争終了後ということもあり、キャンプ・サボイに立てこもる残存米軍および敗残兵である南ベトナム軍を掃討することになりました。
序盤は3方向から威力偵察をおこないます。いえ大攻勢です。ダッコンと正規軍がキャンプ・サボイ北方から攻撃し、解放戦線は南方から圧迫します。
われわれの分隊長は渋いお方で、いかにも古参という感じでありました。両腕をむき出しにしたボロボロの農作業用ベストといったお姿で、これがまたムキムキなのです。米帝から奪った軍用散弾銃を構えてこちらを振り向き、前進を指示する姿は頼もしく、「これがヴェテラン=サンですか!」とひとり感動していました。写真撮ればよかったなぁ……。
ちなみにダッコン部隊と正規軍は笛による指示がありましたが、我々は農民だったので「分隊長の大声」が笛代わりでした。
あ、最初の攻撃は散々な結果に終わりました。南側、ぜんぜん敗残兵じゃないヨ!
その間に私は2回被弾し、重症判定をもらってしまいます。誰かがシールズを捕虜にとって、銃殺していたような気もするのですが、死んでいたのでわかりません。
「前方に機関銃!」という状況に喜び勇んで、「こういうときこそ擲弾兵の出番だ!……喰らえ米帝!」とM79を振りかざしたのですが、「あっセフティww!……喰らえ米帝(何事もなかった体)!」というひとりコントをする始末。
その後、再編成をしてはシールズに撃滅されましたw
一度など、死傷者過多で、分隊長が「解放戦線、突撃!」の命令を出し、シールズのM60が間断なく無慈悲な掃射を食わせたのでした。
何度もバクシィのお世話になる始末。呼べばすぐ来てくださるので、安心して倒れました(笑)
しかしまあ、40mmカート5本は少ないものですね。中国軍の五六式騎銃(半自動歩槍?)用バンダリアは擲弾入れとして最適でしたが、少なくとも10発はないとキビシイですね。
ビフィスズ菌さんによれば、SKS系統のバンダリアをM79用に流用するのは、ベトナム軍が実際にやっているということでした。
午後、配達された弁当を食べた後は、組織的攻撃が増えました。以前はばらばらの攻撃でしたが、今度はより近接して、互いに支援しながら戦うことになったのです。
さらにチン同志が到着なされ、北側の士気は一気に高まります。
見てください、このどこまでも続く北ベトナム軍の戦列を!手前の腕章をつけたヴェトコンはイカさんですかね。迷彩服を着ておられるのが北の特殊部隊ダッコンであります。
当日に見た火器は、各種AK自動小銃、および五六式自動歩槍、モシン・ナガンにPPSh-41、M1A1トンプソンとグリースガンもおられましたね。RPK銃手もおられましたし、三八式を使う狙撃兵も見受けられました。もちろん、件の解放戦線の分隊長は軍用散弾銃でした。
さすがにSKS、五六式騎銃は見かけませんでしたね……AKと五六自動歩槍が圧倒的でした。不思議なことに、鹵獲M16やM60を使っておられる方を記憶しておりません。いそうだなと思っていたのですが。
途中でお約束の南ヴェトナム軍降伏イベントが発生しましたw
チ大佐がわめきつつ連行されてきてからの一幕は必見でしたw
この後、倒れた友軍兵を救出する一幕があったり、シールズに対する包囲総攻撃が、案の定の味方討ちで終結したり、てんやわんやの時間が続きます。
「ようし、南側からキャンプ・サボイを攻略するぞ!」
と勇んで出撃するも、監視塔からの攻撃で大損害を受けたり。
「擲弾兵、前へ!」の鶴の一声で私も奮い立って突撃したのですが、
「喰らえ米帝!あっ、セフティ!ww」
またかよ!しかもここぞというときに!そのままM60の掃射を受けて負傷したりするわけですよ。
そして北方に兵力を集め、キャンプ・サボイの総攻撃が始まります。
ところが、北側の総攻撃のはずなのに、次第に尻すぼみになっていきます。
最初のうちは南側勢力を押しまくるんですが、弾薬を使いすぎたのか、パンパン鉄砲の音しか聞こえなくなってくるんです。
というか米軍が群になって迫ってくるんですが(汗)
そんなこんなで米軍を先頭に逆襲が始まり、精鋭たる正規軍部隊が真っ先にすりつぶされたのでした。北側は完璧に敗北し、米軍のボディカウントを受ける始末。
なぜか敗残兵に掃討される勝利者たちw
キャンプ・サボイを通過して帰還します。こっちが敗残兵ですか(汗)
キャンプ・サボイで威力を誇った重迫です。この発砲音がするたび、我々北側は蜘蛛の子を散らすかのように逃げ隠れしました。訂正。私は。
楽しい時間はあっという間に過ぎ去り、特殊弾薬の時間が参ります。
これはもう、その場にいた人にしかわからないでしょう。
なにしろ50人近い兵士たちが、絶叫しながら米軍陣地になだれ込んでいくのですから。
(この北側一部の集合写真はヴィンさんから戴きました。この場を借りてお礼申し上げます。撤収時のどたばたで、北側全員で写れなかったのは残念でなりません……)
というわけで、ベトベト最終戦が終わりました。
感無量であります。最後の景品大会まで盛り上がる、素晴らしいイベントでした。
ベトベト後遺症にかかりました。あそこに心をおいてきたようです(大げさ)
いろいろ反省点があります。ずさんな参加計画とか、足元確認をしないで倒れて心配されてしまう、とか。
そこらへんを含めて、今後いろんなイベントに参加するときの足がかりにしていきたいと思います。
実は、工兵軍曹殿よりお借りしたM79を戴けることになりました。
「次はアホカリ参加だな?アホカリはもっとガチだから装備整えていけよ?」
とのお言葉も頂戴しました。次のアホカリはさすがに無理ですが、いつか参加してみたいと思います。
デモリション・バッグを購入したとき、ベトナム・ミリタリアさんから「頑張ってる初心者だから、これをあげよう!」とベトナム軍用のタオルを戴きました。(ありがとうございます!)
いつかは人民軍の兵士として、SKSか五六式騎銃を持って走りたいものです。RPDでもいいなぁ……M60でも。
ベトナムの空は、日本の空につながっております。
開会式での、犠牲者たちへの黙祷は心に来るものがありました。
あの哀しげなラッパの音が染み入ることといったら!
帰り道、ガラナファクトリーのフロレスさんのバンに便乗させていただきました。
フロレスさんがおもむろに流した曲は、合衆国国歌。
大音量で流れる壮大な音楽。
過ぎ去る景色を見つつ、国歌を聴いたとき、私は様々な縁を感じました。
工兵軍曹殿、劇団長閣下、ヴィンさんをはじめとする北側の方々、そしてベトベト運営の方々……。
特に、はじめて会ったばかりの若輩者に、手を差し伸べてくださったガラナファクトリーのフロレスさん(http://br6jp.militaryblog.jp/)。
大勢の方々に感謝の意を表したいと思います。
ありがとうございました!
ベトベトしま戦か?18 最終戦 サイゴン陥落、お疲れ様でした!
(この全体集合写真はイカさんから戴きました。提供ありがとうございます)
また会う日まで……。
ベトベト前後のぼく。
(「クレィドゥ・ザ・スカイ Cradle the Sky」 森博嗣 著 中央公論新社より抜粋)